コンブロード

藻のなかで日本人にもっともなじみ深いのはコンブでしょう。

 中国や朝鮮半島、南洋諸島などでもコンブは食用に使われていますが、そもそもは日本から中国を経て伝わっていったものです。

 中国から渡来した食品の多い中で、逆に日本から中国に渡った数少ないもののひとつがコンブでした。

 これは、中国の海では、テングサなどはとれてもコンブは採れなかったからで 、中国との交流においてコンブは重要な位置を占めていました。

日本のコンブのほとんどは北海道の沿岸で採れます。 (残りはわずか、三陸沖に限られています)  北海道産のコンブが日本各地に運ばれた経路― シルクロードならぬ「コンブ ・ロード」はいくつかあり、それぞれのルートに時代背景があっておもしろいところです。

 古い文献によると今から2000年くらい前、神武天皇の時代からコンブは、 おめでたい儀式に使われていたといいますが、ルートは明確ではありません。  7〜8世紀頃まで、北海道と畿内を結ぶ海上輸送路は日本海から小浜、敦賀に達する西回りだけでした。

 近世になって、堺や大阪が繁栄する時代になると、堺や大阪の港にコンブ船が集まり、畿内でコンブの商売が始まりました。 そして江戸時代の始め頃、精進料理の盛んな奈良、京都を中心にコンブの需要が一気に広がったのです。

 こうして大きくなったコンブの需要を支えたのが、「北前船」でした。 松前―大阪直通の航路は、当時その商才をうたわれた近江商人達によって開かれました。

 江戸時代から明治中期にかけ、東海道とならんで交通の大動脈を形成しましたが、北前船の最大の交易品が、コンブだったのです。

 商人達は、この「コンブ・ロード」を行きは文明の品々を山積みして船出し、 帰りはコンブをはじめとしてあふれるばかりの海産物を積んで日本海の港々を たどり、大阪は、最大のコンブの港になりました。

 北前船は「コンブ・ロード」の花形でした。

 司馬遼太郎の著書「菜の花の沖」では、この北前船に命をかけた高田屋嘉兵衛の物語が、ロマンあふれて語られています。

 その後、東回りで江戸へのルートが開け、さらに西回り、東回り両方面から、 琉球王国(現在の沖縄)への航路が開け、琉球を中継地として清(中国)へと 「コンブ・ロード」はのびていったのです。

 北海道の松前藩はコンブや魚類の取引に税を課して藩の財政を潤しました。

 幕末の頃になると、財政がひっ迫していた薩摩藩は、富山の売薬のグループと手を結び、北前船でコンブを運んできて中国に輸出し、中国からはジャコウなど貴重な薬の原料を輸入する、密貿易を行ってきました。

 薩摩藩はこの密貿易で財政を立て直し、紡績や大砲などの工場を次々と建設して力を蓄え、倒幕から明治維新をなし遂げる主役となったのです。

 北海道産のコンブが日本の歴史を動かす一因になっていたというのは興味深いことです。